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「せりふの時代」5月号

季刊戯曲雑誌「せりふの時代」5月号(小学館)の連載コーナー篠井英介氏のエッセイで、昨秋歌舞伎座で行われました「梅津貴昶の会」が取り上げられましたので、以下にご紹介いたします。


※「せりふの時代」5月号は、書店又は小学館WEBサイトでお求め頂けます。

小学館Webサイト 

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篠井英介「カンゲキ」 第15回  (出典元:「せりふの時代」5月号 小学館)


 昨年の九月二十七日、歌舞伎座で一夜限りの第十三回「梅津貴昶の会」を観ました。日本舞踊の公演で、梅津さんは日本舞踊家です。この夜とても感動したことがあったので、それを書きたいと思います。

 その前に、日本舞踊について説明しておきましょう。今さらのようですが、日本舞踊は歌舞伎舞踊が源です。昔、歌舞伎のなかの舞踊場面(所作事)を観て、「私もやりたい」と多くの観客が思って、そんな歌舞伎ファンに舞踊を指南する師匠が出てきたのです。つまり、師匠達が踊りの専門家として活動を始めた歴史がありますから、花柳、藤間、坂東といったたくさんの流派があるものの、そのレパートリーのほとんどは歌舞伎舞踊であり、『藤娘』も『供奴』も各流派が同じ演目を、少しずつ振りを違えて共有していることになります。

 そして弟子(生徒)は、師匠が催すおさらい会(発表会)で日頃の稽古(練習)の成果を披露します。規模の大きなおさらい会になると、歌舞伎役者さながらの衣裳、かつらをつけ、生の演奏家を従えて一曲を踊るという一大イベントになります。師匠はそれを指南するのですから、歌舞伎役者と同等の技量のうえに、指導者としての力量も必要です。

 日本舞踊家は師匠をすることが生業で、自分が舞踊を舞台で見せて生計を立てている人は一人もいません。この辺がとても特殊ですね。でも弟子への指導だけでは自分の研鑽にならないと、リサイタルを開いて芸の精進を世に問う日本舞踊家もたくさんいます。

 梅津貴昶さんもその一人ですが、昭和六十年の第一回から昨年までの二十四年間で、十三回も歌舞伎座でリサイタルを開催してきた強者です。何が強者かというと、一日昼夜の公演(昨年は夜一回公演)とはいえ、歌舞伎座を満員にする人気と動員力があること以上に、歌舞伎座という歌舞伎の殿堂で踊るという本人の自信、それを許し認められる実力がないと不可能なことだからです。だから梅津さんは、世が認めるスゴイ舞踊家なんですが、もう一つスゴイのは、「素踊り」しかやらないことです。

 「素踊り」とは、歌舞伎役者ではない日本舞踊家が、男の場合は紋付と袴だけで踊ることで、舞踊家としての意義や存在を突き詰めてできたスタイルと言えるでしょう。

 女流の場合は、前割れという結い方のかつらに、後見という帯の結び方で舞個性という約束の姿があり、「素踊り」の一つの形です。やがて舞踊のための新曲の長唄や清元もつくられるようになり、それらを演ずる時は素踊りがふさわしいのは当然となりました。

 梅津さんは歌舞伎座の公演にあたっては純粋舞踊曲を避けて、あえて歌舞伎舞踊の演目に挑戦しつづけています。この勇気は驚くべきことです。一年中絢爛たる歌舞伎が演じられている歌舞伎座で、紋付袴姿で『鷺娘』や『藤娘』を踊るのは無謀ともいえます。

 その仰天の過去の演目を並べてみると、『船弁慶』『春興鏡獅子』『積恋雪関扉』『吉野山』。当代勘三郎さんや団十郎さん、菊五郎さんらを賛助特別出演に迎えて、脇を固めてもらっての主役の数々は驚嘆に値します。

 長くもない紋付の袂で振り袖があるように、袴で裾を引いた扮装である役柄であるように踊る。でも、アテ振りや稽古着の踊りになってはいけなくて、舞踊家の正装たる紋付袴で歌舞伎座の歌舞伎舞踊になっていなくては観客は許してくれません。

 梅津さんは過去の公演で、舞踊家の素踊りの品格と舞踊のステキさと深さを観客に見せつけてくれました。梅津さんならではの、梅津さんの踊りが見たいという人達は今回も歌舞伎座を満員にしていました。

 ここでスゴイ体験をしたのです。
それは開演直前、柝が何度も打たれて(開演の準備を知らせる拍子柝)、そろそろかなという頃、歌舞伎座客席は水を打ったように静かになりました。普通、開幕直前の「二丁」という柝の合図で、観客は舞台への居住まいを正したり、読んでいた筋書(プログラム)を閉じたりします。今夜はまだ柝は幕内でまわっているのに、誰も咳払い一つしなくなったではありませんか。いつ緞帳が上がってもいい体勢に、観客全員がなっているのに本当にびっくりしました。歌舞伎座の観客のこの静寂と緊張を私は「武原はん・舞の会」の時しか知りません(「武原はん」とは、上方舞の不世出の名舞踊家です。この方だけは、後にも先にも弟子をとらない、踊り手一筋の舞踊家でした)。

 息詰まる歌舞伎座の客席全体に、私は心から感激してしまいました。客席で賑やかにお弁当を広げたり、楽しそうに連れと話しながら引き幕が開くのを見ている華やかさ、ざわつきもワクワクして大好きだけれど、こんな歌舞伎座が年に一度あってもいいじゃないか。

 観客は梅津さんが今夜一世一代、黒紋付で『京鹿子娘道成寺』を五十分近く踊り通そうとしているのを知っていて、その気迫に応えようとしているのだろうか。あと数ヶ月でこの歌舞伎座という建物が取り壊されてしまう惜別に浸っているのだろうか。私自身も身じろぎもできずにいたのです。たぶんこの静寂は、十分近く続いていたと思うのです。長いです。

 歌舞伎座で踊りを待つ観客にこれだけの気概があったのかと、多分にセンチメンタルに胸を熱くしました。こりゃひょっとしたら、当の演者より全観客のほうが緊張しているかもしれないなぁと思った時、「はい、ではまいります。」とはっきりした声が、少なくとも私のいた一階席全体に聞こえたのです。

 これは主役が花道から登場するので、鳥屋の中で待機している主人公に、揚げ幕を開ける係のおじさんが、幕の中で伝えた声だったのです。おじさんは普通に、そばに控え居る梅津さんにそっと伝えたつもりだったでしょうが。

 こんなことは前代未聞でした。それだけ客席が静まり返っていたのですよ。
すぐに柝が二丁打たれて幕は開き、観客はようやく見るべきものを与えられて気がほぐれたに違いありません。歌舞伎も踊りも大好きな私にとって、忘れ得ぬ体験となりました。
とってつけたような言い草になりますが、伝統芸能がこんなふうにその時代の人々にとってトキメクものであってほしい、いつまでも、と願ってやみません。

 もちろん、この夜の梅津貴昶さんの『京鹿子娘道成寺』は、花道での道行から丁寧な乱拍子、鐘の上でキマる幕切れまでを、黒紋付で踊りぬく素晴らしい舞台でした。梅津さんは、私にとっては三十年来の憧れ、尊敬する舞台人です。この年になって胸躍らせて舞台を観に行ける憧れの人がいることが、本当にありがたいと思っています。


間劇


 相変わらず演劇の公演数は多い、いや夥しいほどにあります。下北沢の本多劇場やザ・スズナリに行くと、ドサッとチラシの束を渡されますよね。それらチラシとシアターガイド、送られてくる友人達の公演案内を選り分ける作業も、楽しかったのは去年まで。お恥ずかしくも、昨年は入場料にあまりにお金をつぎ込んでしまいました。老後の心細さもふとよぎる近頃、今年は観劇を減らさねばと思い至っています。

 演劇中毒の私ですらこんなふうなら、多くの演劇ファンも同じかそれ以上でしょう。何しろ、生活あっての演劇鑑賞ですものね。この世から演劇がなくなることはないとは思うものの、演劇がそれなりに芸術の一分野として胸を張っていられる将来のために、今どうしたらいいんでしょう。行き着くところは、目先の自分の仕事(芝居)を精一杯尽くして良い舞台をつくることなんですが、そしてお客様が満足してくださる一歩を、確実に重ねるしかないのかしら。

 これを見なきゃ流行に乗れない的な演劇公演で、劇場に来ることに慣れてもらうことだって悪いことではないと思ったり。「二度と劇は観たくない」と思わせないレベルの舞台が前提ですけど。
 しょせん、映画や文芸、音楽とは違って複製できないから、市場が広がり得ない分野なのだと諦めてしまいそうになります。こんな気分のせいで、閉鎖的な狭い自己満足の一分野に陥ってしまった現在がある、と言ったら言い過ぎかしら。そう思っているのは私だけかな。

 私達は、不特定多数の人に向かっているようでいて、その実は、狭い何かにこだわっているのだろうか。仮に演劇の仲間に向かって? 仮に自分達の前回の公演の未熟さに向かって? 仮に今日観に来る恋人に向かって?

 これらの「仮に」が本当であっても、けっして悪いことではないのが芸術の面白いところなのだけれど。

 次回は最終回です。たくさん書きたいことがあるけれど……。
 読んでくださって、ほんとうにありがとう。