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素踊り「茨木」への期待

米原範彦

 見えないはずのものが見え、見えているはずのものが見えなくなる。聞こえないはずのものが聞こえ、聞こえているはずのものが聞こえなくなる。五感に麻酔的な錯覚が兆す。芸というものの本質の話である。それは一種の、蠱惑的な詐術であり、妖麗な魔術でもある。

 梅津貴昶は2012年10月30日、第二十回記念の「別会 梅津貴昶の会」(国立能楽堂)で、坂東三津五郎を迎えて「茨木」を上演する。鬼女が渡辺綱に切り取られたかいなを取り戻しにくるといった河竹黙阿弥作詞の歌舞伎舞踊だ。歌舞伎では、切りとられた腕は衣裳で隠すのが定石だが、今回、振り付け・演出の妙もあって、切り取られたはずの腕をことさら隠さないで、素踊りで舞い踊るという。

 見えるものが見えなくなる芸が繰り出されるのだろうか。貴昶の腕が袖からのぞいて「あること」が「ないこと」を強く意識させるかもしれない。「あること」で、観客の視覚には切られる瞬間が乗数的に再現されるかもしれない。それは見えないものを見せる芸以上に高度な技ともいえるだろう。

 貴昶の芸に思いをはせる時、綱館を訪れる鬼女が化けた伯母は、隙あらば付け入ろうとする狡猾の権化ではない。匂い立つ魔性を押し殺して、半ば清廉なさめざめとしおれた女であろう。鬼神と変じても、それは猛々しく乱闘する悪鬼ではない。時折兆す鋼鉄のムチのような攻撃を伴いながらも、一種、放心の中で、何かに操られながらしずしずとうごめく幽鬼となるのではないだろうか。

 幽体はふわふわと浮流しながら、慎ましやかに強靱な一撃を繰り出すのである。そうなると、腕の有無は気にならなくなるのかもしれない。

 いや、貴昶は、腕を切られた鬼女ではなく、切られた鬼女の腕自体になるのかもしれない。その腕は、鬼女の意志に操られてか、何ものかに憑かれたように、ただただ虚空を浮遊する。身体を離脱した幽体の象徴のように。そして、早足を踏む綱の刃をこともなげにかわして、鬼女のところに戻ってゆく―と、想像するうち、少し背筋が寒くなった。


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